妙好人の言葉


「ゆかいですな…、ありがたいですな…、不思議ですな…」   ある昭和の妙好人の言葉





 「ようこそ ようこそ」
                因幡の源左同行の口癖





 忘れても、忘れぬ弥陀がある故に
 忘れ乍らも、この身このまま
                因幡の源左同行





 あれば鳴る 
 なければ鳴らぬ鈴の玉
 中に六字が
 あればこそ
                因幡の源左同行





 一口称えて足らんでなし
 千口称えて足ったでなし
 ただお念仏は、せいだいて
 たしなまして頂きましょうぞなぁ。
                因幡の源左同行





 助けにゃおかんの大願だけのう
                因幡の源左同行
 




 ただのただでも、ただならず
 聞かねば、ただは貰われぬ
 聞けば聞くほど、ただのただ
 はいの返事も、あなたから    
                因幡の源左同行





 おかるおかるとゆり起こされて
 あいと返事もあなたから
                六連島のおかるの歌





 弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ
 聞くより先のお助けよ
 聞くに用事はさらにない
 用事なければ聞くばかり
                六連島のおかるの歌





 なにごとも昔になりて今ははや
 南無阿弥陀仏をとなうばかりに
                六連島のおかるの歌






 聞いてみなんせ まことの道を
 無理な教えじゃ ないわいな   
 きのう聞くのも 今日また聞くも
 ぜひに来いとの および声
 重荷せ負うて 山坂すれど
 御恩おもえば 苦にならず
                六連島のおかるの歌





 毎朝毎朝
 洗面所の鏡にむかって
 私は自分のなにを
 見ていたのだろうか
                浅田正作





 やどかりが
 自分の殻を
 自分だと言ったら
 おかしいだろう
 私は 自分の殻を
 自分だと思っている
                浅田正作





 みなが疑いを嫌うような聞きようをするが、それでは親心に叶わぬ。
 乳飲み子が母の乳房を噛むと、乳を飲ませぬと腹を立てるということはない。
 かえって歯の生えたことを喜ぶごとく、大悲の御親は疑えば助けぬぢゃない、かえって疑いの歯の生えたことを喜ぶとまでの御意にあうのぢゃ。
 けれども疑うてさえをりゃよいと聞くぢゃない
                おみせ





 信というは
 はいというまでのことでありますげなあ。
                おその





 もし生まれずばとまでいわれる
 その若しは、私のためでありましたか
                おその





 拝んで助けてもらうじゃない
 拝まれて、下さる如来さまに、助けられてまいること
                善太郎





 どこにいても、寝ているところが、極楽の次の間じゃ
                庄松同行





市五郎(いちごろう)
兵庫県相生市相生。餅屋市五郎。1711(1715)-1838。市五郎はお餅屋さんであった。相生光明寺境内には、その徳を称える碑があります。
妙好人伝によると次のようであった。
 妻は邪見であった。
 市五郎は美食は妻に与え、苦しい汚い仕事は、自分がして女房を可愛がった。
 ある人そのわけを問えば、「女房は後生の一大事を、毎々進め話せども、無宿縁と見えて、聞く心もなければ、
 それが不憫で、この世なりとも楽させてやりたいと思うからである」と言った。
 さすが邪見の女房も夫の実意を感じて、遂に御法義を喜ぶようになったという。





(ある同行) 「あなたはただ如来のお助けが有り難いとばかり言っておられるが、それではタノム一念が抜けているではないか」
(平兵衛)  「私はタノムすべも知らない愚かな者です。タノまねばならないことであれば如来様の方からよいようにしてくださるでしょう」
                平兵衛





 わがものとおもえば尊き弥陀の慈悲
 他力ならこそ軽くもつなり
                おつる



 身はここに心は弥陀のふところで
 抱かれてかえる親のふるさと  
                おつる





 天竺で南無とよびしを支那では帰命
 日本でたのむと教えしが
 いまは私のお領解(りょうげ)でおたすけ治定となりたもう
                おつる 





 あみだぶつ、阿弥陀ぶつぶつあみだぶつ。
 こんな大悲の阿弥陀仏、かかる私をおたすけで、やがて往きます極楽へ。
 なむあみだぶつなむあみだぶつ
                おつる





 世の中で阿弥陀さんと私のよろこびを、ひとがきいてもわかるまい。
 諸仏がきいたらおかしかろ。
 こんなもんが阿弥陀さんの一人子ぢゃ、なむあみだぶつ
                おつる





 はずかしや、往けそうにござらぬ、まいれそうにないが
 おたすけのみ仏につれられて
 やがて浄土へ往く身ゆえ
 すこしは遠慮もせにゃならぬ
                おつる





 倒された竹は芽も出る
 起きもする
 倒した雪は
 後かたもなし   
                小川仲造





 「まかせなさい」
 「ハイ」
  ただ
  これだけ・・・・・
                鈴木章





 許す許さぬは外への視点 視点を内に転ずれば私も許されている       鈴木章





 説法はお寺でお坊さまから、聞くものと思ってましたのに……肺癌になってみたら 
 あそこ ここと 如来さまのご説法が 自然にきこえてまいります 
 このベッドの上が 法座の一等席のようです
                鈴木章





 肺ガンになって ここ あそこから
 如来さまの説法が 少しずつ きこえてきます
 今現在説法の真只中でございます
                鈴木章





 癌は
 私の見直し人生の
 ヨーイ・ドンのGUNでした

 お念仏をいただくことができまして
 ありがとうございました
 喜んで この生 終らせていただきます
                鈴木章





 お浄土に さのみ用事はなけれども 救はせてくれよの御親なら
 お互に参って上げようぢゃないかえ。御同行。
                妙好人・香林保





 迷う道は広いが
 助かる道はただ一筋
                和泉の吉兵衛





 (ある人に「あなた程の人なら、もう腹が立つことはないでしょう」と言われて)
「腹は立ちますよ。凡夫じゃもの。じゃが、如来様に根を切ってもろうているから、実がならぬだけじゃ」
                和泉の吉兵衛





 近所の家に行った時。この子供が木の枝をもって
 「この間 大風が吹いて コナイ コナイ センド ゆられて ポキンと折れました」
 と言うと、
 「もう一ぺん いっておくれ」と自分も合わせ
 「コナイ コナイゆられて ポキンと折れましたか」
 と何べんもよろこんだ
                和泉の吉兵衛





 「目をあけてねむっている人を起こすことはむずかしい」 
                和泉の吉兵衛





 ある ある ある
 みんなある
                中村久子





 南無阿弥陀仏 この声を聞いていると、
 「お前に相談なしに、お前の南無阿弥陀仏に成ったぞや。
  いやでもあろうが、この度はこの弥陀にめんじて、助けさせてくれよ。」
 と、阿弥陀様が、両手を仕えて、頭を下げて頼んで御座る御姿、御声が、
 今この口に現れ給う南無阿弥陀仏であります。南無阿弥陀仏
                松並松五郎





 喚びづめ 立ちづめ 招きづめ
 弥陀はこがれて あいに来た
 そのお姿が 南無阿弥陀仏
                松並松五郎





 たしか良寛様の句と聞いていますが、「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」風にまかせている姿なり。
 スーと散っては何の風情がないが、ひらひらと風にまかせて、散って行く処に面白味がある。
 我々も極楽の風の吹く時は南無阿弥陀仏、煩悩の風の吹く時は、裏になって散ってゆく。
 表を向いて散っても別に妨げにもならぬ。同じ一枚の葉である。私は裏の方が多い、だから南無阿弥陀仏
                  松並松五郎





(以下、加賀の千代女さんの俳句を…)
 「開くとき 木の実を結ぶ 梅の花」             (安心)
 「五月雨(さみだれ)や しげきなかにも 咲くあやめ」    (報謝)
 「幾たびも お手間かかりし 菊の花」            (師徳)
 「重くとも こらえてもてや 雪の竹」            (法度)





 起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな





 うつむくは、そのおきてなり百合の花





 月も見て 我はこの世を かしく哉




 手を出すな、手を出すな、仏の帳場に手を出すな、凡夫が手を出しゃ極楽も娑婆になる。裸で来たで裸で還ろう。         前川 五郎松





 ハイ、漢字で書くと「拝」ぢゃと教えてもろたが、びっくりした。
 「拝」は南無や。爺々にハイがある筈のないことを知らされた。
 うらにあるものは「ケレドモ」ばかり。
                前川 五郎松





 仏壇の前は、なんでこんなに嫌なのか、それもその筈、鬼が仏の顔見りゃ恐いわ。
 仏壇の前は、なんでこんなに窮くつなのか、それもその筈、高い頭が押えられるで。
                前川 五郎松





 臍の話を聞いたことがある。
 母親の胎内に居るときは大切な役目をしたのだろうが、娑婆へ出て来たら、もういらぬもの。
 それが腹の真ん中にアグラかいて居る・・・と、こんなふうにうらは思っていたが、とんでもない考えちがいやということを知らされた。
 人間の体で一番大切な所は臍やと言う。その証拠に、どんな大手術をしても臍だけはよける、臍を切ったらその場で死んでしまうと言うことや。
 お臍がうらに叫んで居る”お前のいのちじゃないわい”
 みなさん、お臍を見ましょう、ながめましょう。
                前川 五郎松





 昔の人は信心さえもらえば、仏さまに、助けてもらえると思ったのであろうか。
 信心とはどんなことか、判っきりしもせず、ただお助け話を聞いて有難うなったのが信心だと思ったのか。
 それではただ話の言葉を受け取っただけで、中味が明かでないから、わたしは信心もろうたけれど、あの人はまだもらえてをらん、信心もろうて喜ばれるようにならなあかん、だいぶ喜ばれるようになったけど、まだ腹が立つのが治らん、あんなのではあかん、こんなのではあかん・・・など、友だち同志で言い争いをする。あげくの果てには、お師匠様に”これでよいのでしょうか”と聞く始末。
 信心というお助け話、極楽話に終っている、言葉をつかんで、抱えこんでいる、危い危い。
 ちがうちがう。こんなこと言うとるうらが危い危い、ご用心ご用心。
                前川 五郎松





 闇と光について、いつかこんな言葉をお師匠様から聞いたことがある。
 「暗闇の中で宝があっても、つまづくだけや」と。
 燈明(あかり)をつけてもらうだけや、何にも変らぬ、見える見える、見えると安心や。
                前川 五郎松





 霊と聞くと、すぐうらは霊魂を思うてしまう。聞かせてもらってみるとそんな霊は亡霊・幽霊のことで、死んでも死にきれんと言うやつや。
 そんなものは早く死にきり、無くならねばあかん。無いほうがよい。
 ご開山さまが教えてくださったのは、「なむあみだぶつ」これが本当の霊にちがいない。
 「霊性」、不可思議な働き、この身を生かして下さって居る働き、これが真霊、親様じゃ。
                前川 五郎松